グローバル化とローカル化は振り子のごとし

トランプさんが米大統領選で当選した。

 

結果が予想外だったからというのもあるが、その理由に対する分析がいろいろなところでなされているが、合衆国の国民のかなり多くの人がこれまでのグローバル化に苦しさを感じていたことは間違いなさそうだ。

 

そもそもグローバル化とは何か?という議論もあるが、「事を為すためにより遠くの情報やものを、持ってくることができるようになっていくこと」と自分は理解している。

 

技術の進歩によって、グローバル化の為のコストが下がり、「より遠くの情報や安いもの」にアクセスできるようになると、反対に「近くの高コストのもの」が切り捨てられるということになる。その影響は当然、先進国ほど顕著であり、よくいう「中間層の消滅」の原因はそれである。

 

しかしグローバル化が進みすぎると、フロンティアとしての「より遠くの情報やもの」も底を尽きてしまい、いずれ限界が訪れる。しかるに、誰ももはやこれ以上グローバル化で得をできなくなる。こうなると、単に安いだけの遠くのものよりも、近くにある特別なものに興味が向くのは、自然な流れである。

 

他国も似たようなものだと思うが、日本については明治維新グローバル化がずっと続いてきた。明治維新は世界史でもまれに見る成功した革命と聞いたことがあるが、かといってローカル化の最たる”鎖国”をしていた江戸時代の民衆の生活が不幸だったかというと、きっとそうではない気がする。

 

今回トランプさんの当選について、米国の分断とか対立といった切り口でいろいろな論評が為されているが、これはイデオロギーの対立とかいう話ではなくて、単に今がグローバル化からローカル化へ振り子が振れる時代であるというだけのような気がする。それはどちらが良いとか悪いとかいう話ではなくて、本来グローバル化とローカル化は行ったり来たりするものであって、そういう時期が来たというだけのことだ。

 

なるほど。